ミハエル・シューマッハのF1人生を回顧してみると
2006年 09月 15日
一方でタイガー・ウッズは賞賛のコメントをだしています。
今回は、シューマッハのF1での足跡について写真で振り返ってみます。ご存知のように、1991年ベルギーGPでジョーダンに乗りF1デビューを果たしています。予選7番手という衝撃的なデビューでした。
1戦限りでベネトンに移籍し、F.ブリアトーレ&R.ブラウンのコンビにより教育され、頭角をあらわします。翌1992年ベルギーGPで初優勝をあげるなど、ルーキーとしては抜群の成績をあげ、ランキングもあのセナを上回る3位となっています。
このころのF1はマクラーレン・ホンダからウィリアムズ・ルノーへ覇権が移行していく段階、その中でシューマッハ&ベネトンはダークホース的な働きをしていたと思います。さて運命の1994年、セナが待望のウィリアムズのシートを獲得して、今年はセナの年と思われていたのですが、何とシューマッハが開幕2連勝、運命のイモラをむかえます。そしてあの悲劇がおき、シューマッハはその後、ウィリアムズのエースとなったD.ヒルとチャンピオン争いを繰り広げ、最終戦で逃げるシューマッハにブロックされる形でヒルのマシンが追突し、両者リタイア、シューマッハの初タイトル(わずか1点差)が決定しました。
翌年も、ヒルとの戦いは続き、イギリスGPでの接触(今回は、明らかにヒルのあせりによるミス)など、ヒルとの戦いではいろいろな因縁が残りました。1995年は、ベネトンもルノーエンジンを搭載し、ポイント差は30点以上引き離し、2年連続のチャンピオンに輝きました。
そしてこの年をもって、ベネトンを離れ復活を期するフェラーリに移籍していきました。
当時のフェラーリは、1979年以来ワールドチャンピオンから遠ざかっており、シューマッハの(ドライバーとしての)腕、政治力(R.ブラウンの移籍、開発資金の調達)をもってあっという間にトップコンテンダーにしてしまいました。1996年はチャンピオン争いに加わることはできませんでしたが、翌1997年は最終戦まで、J.ヴィルヌーヴと争い、FIA異例の勧告にも関わらず、またしても接触(1994年の再現)事故を起こし、この年のポイントを剥奪される処分を受けています。
1998年この年は、昨年の最終戦で初優勝をあげた、シューマッハのF3時代からのライバル、M.ハッキネン&マクラーレンとの死闘の末、惜しくもチャンピオンを逃します【マシンの仕上がりは、圧倒的にマクラーレンでしたの】。
そして運命の1999年イギリスGPがおとずれます。コースアウトして生涯初めての骨折、数戦欠場を余儀なくされ、E.アーバインが頑張ったものの、ハッキネンの2連覇でこの年は終了、ただフェラーリは1983年以来のコンストラクターズタイトルを獲得しています。
2000年以降は5年連続してワールドチャンピオンに輝き、昨年はアロンソのルノーにその座を譲りましたが、2006年は復活しわずか2ポイント差で終盤に突入して、現在を迎えています。
後3戦、シューマッハの走りを見ることができるのも残り少なくなってしまいました。
写真は http://f1-facts.com/ から